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Posted by あしたさぬき.JP at

2008年05月09日

手作り健康器



滑車で左手を上げたら右手を下げ

これを紹介してくれた人は毎朝100回これをするそうです。

そうすることで胸をはり、背筋が伸び、肩の凝りも取れるそうです。

やってみたけど100回はきつい。  


Posted by ぷるぷる at 18:10Comments(0)健康

2008年05月07日

衣替えしてて良かった!


今日はメチャメチャ暑かった。車に乗っているとジワーッと汗が出てきます。

車を止めてメモ書きしていてもジワーッと汗が。

もし今日冬服なら汗汗だらけだったろうなぁーニコニコ

こんな日は、はよう帰ってビールをゴクゴク飲みたいものだ。ビール  


Posted by ぷるぷる at 16:40Comments(1)生活

2008年05月06日

連休最終日


経験は買ってでもせよ と言われますが、連休最終日はラウンドワンへ初めて行ってきました。

嫁とわが子と妹の子の4人連れ。予め電話で聞くと午前中のほうが空いているとのこと。早速車を飛ばしラウンドワンへ!!!

アドバイス通りまだまだ空いていました。

そして、色々なスポーツに挑戦ができました。

釣堀、バッティング、ゴルフ打ちっぱなし、バスケ、サッカー、バレー、バトミントン、アーチェリー、カーリング、パタゴルフ、テニス打ちっぱなし、サッカーPK、ミニボーリング、ボクシング、卓球、ゲーム、ハイパーホッケ、ユーフォーキャッチャー、コインゲーム、・・・・ほんまに3時間満喫でした。

ちなみにお金は休日は大人1600円、中学生1400円、小学生1300円でした。


子供たちも楽しそうでした。・・・・・さて、明日はテストがあるそうで勉強・・・・と言っても睡魔が来ています。ほんまー大丈夫?ウトウト  


Posted by ぷるぷる at 16:15Comments(0)生活

2008年05月05日

麺フェスタ

韓国の麺はそうめんみたい。あまり美味しくなかった。讃岐うどんが最高だ。
  


Posted by ぷるぷる at 17:26Comments(2)

2008年05月03日

がんがん行くで

今日は有意義な一日でした。

喋りすぎて只今小休止。

さて、何があったかと言うと、玉響という古民家であるプロジェクトの会がありました。

玉響は僕のじいちゃんの家を思い出すような土間あり天井むき出し、囲炉裏ありとトテモ懐かしくまた行きたい場所になりました。

会の手作りピザや他の料理を食べながらリラックスした雰囲気でとても良かったです。

  


Posted by ぷるぷる at 19:01Comments(4)

2008年05月02日

組織委員会終了

ずいぶんとご無沙汰してます。
チョット書かなければツイツイまぁいいか!!!てな事になっていました。

4月28日の出来事を記録しておきます。

その日は同友会の組織委員会の私にとって最後の役員会でした。
思い起こせば5年前右も左も分からずに会員開発委員会に所属になり、怖いもの知らずでいろいろな企画を立てました。

賞金付きの「なかま創り企画書募集」・・・燃えました60名以上の頭脳が集まりました。しかし、賞金付きと言うことで最後の最後になってもめました。K委員長も熱かった!怒ってるぞ

●ソレーユでの「てんびんの詩」映画上映会。初めてオケを売りに天秤棒を担いで町に出た少年に困難が降りかかり、その度に人の温かさを知り本当の商売人に変っていく物語です。
泣けました・・・くぅっ泣き

●『1,000人の仲間に知ってもらおうキャンペーン』ではTry the 1,000を合言葉に全員を巻き込んで1000名リストを作り上げることが出来ました。まさか自分で言うのもなんなんですが1000名のリストが集まるとは思いもしませんでした。皆が力を合わせることの素晴らしさを痛感しました。オドロキ

隣の仲間づくり・・・全国の事例集を作ったり。いっぺん同友会に来てんまい !無料チケットを作ったり、果敢に挑戦をさせて頂きました。スマイル

その後組織が変り、私は「例会を作る会」の事業部長として仕事をさせて頂きました。

●例会を作る会ではグループ長をいかに多く育てるかをテーマにあの手この手でH副委員長と頑張りました。その成果は去年の全国総会で花開き見事に香川県のメンバーが堂々とグループ長をやり遂げたと聞きました。ニコニコ

まだまだ色々なことがありましたが、この委員会で思いっきり遣ったことは私の財産ですし、何よりも知り合いが増えたことは私にとって最高の宝物になりました。

途中色々な気持ちが入り乱れましたが、こんなチャンスをもらえたことに今となっては感謝です。

今後はF委員長を中心に益々発展していくと思いますが、陰ながら応援をして行きたいと思います。アップ


感謝メロメロ


  


Posted by ぷるぷる at 09:53Comments(0)経営

2008年04月29日

のらしごと


今日は暑かった。

親父が野良仕事から帰ってきた。

たまには手伝わねば親父ももう年だ。

親父いつもうまい野菜や米ありがとう。  


Posted by ぷるぷる at 18:09Comments(3)生活

2008年04月27日

宇宙の約束

これは是非みんなに聞いてもらいたい。




そして時間があれば読んで欲しい。
泣きに泣いた「きいちゃんの浴衣」泣き
布切れ、浴衣一枚にも物語がある。

きいちゃんの浴衣
きいちゃんは教室の中でいつもさびしそうでした。たいていのとき、うつむいてひとりぼっちですわっていました。
だからね、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声でとびこんできてくれたときは本当にびっくりしたのです。こんなにうれしそうなきいちゃんを私ははじめてみたのですもの。
「どうしたの?」そうたずねると、きいちゃんは「おねえさんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」ってにこにこしながら教えてくれました。ああ、よかったって私もすごくうれしかったのです。
それなのにね、それから一週間くらいたったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、ひとりで泣いているきいちゃんをみつけたのです。
涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。
「おかあさんがわたしに、結婚式に出ないでほしいって言ったの。おかあさんは私のことが恥ずかしいのよ。おねえさんのことばかり考えているのよ。私なんてうまなければよかったのに」きいちゃんはやっとのことでそういうと、またはげしく泣いていたのです。

でもね、きいちゃんのおかあさんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。
きいちゃんは小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって車椅子にのっています。そして訓練を受けるためにおうちを遠く離れて、この学校へきていたのでした。
お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことはなんでもしたいのだと話しておられたのです。
だからおかあさんはけっしてきいちゃんが言うように、おねえさんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、おねえさんが肩身の狭い思いをするのではないか、きいちゃん自身がつらい思いをするのではないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。
きいちゃんはとても悲しそうだったけれど、「うまなければよかったのに・・」ときいちゃんに言われたおかあさんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。
けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもおかあさんの悲しい気持ちにも、私はなにをすることもできませんでした。ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントをつくろうよ」と言いました。
石川県の金沢の山の方に和紙をつくっている二俣というところがあります。そこで、布を染める方法をならってきました。さらしという真っ白な布を買ってきて、きいちゃんといっしょにそれを夕日の色に染めました。
そしてその布で、ゆかたをぬってプレゼントすることにしたのです。
でも、本当を言うとね、私はきいちゃんにゆかたをぬうことはとてもむずかしいことだろうと思っていたのです。きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなかもっていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人といっしょにすることが多かったのです。ミシンもあるし、いっしょに針をもってぬってもいいのだからと私は考えていました。
でも、きいちゃんは「ぜったいにひとりでぬう」と言いはりました。まちがって指を針でさして、練習用の布が血で真っ赤になっても、「おねえちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」ってひとりでぬうことをやめようとはしませんでした。
私、びっくりしたのだけど、きいちゃんはぬうのがどんどん、どんどんじょうずになっていきました。
学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっとゆかたをぬっていました。体をこわしてしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんはゆかたをぬい続けました。
そしてとうとう結婚式の10日前にゆかたはできあがったのです。
宅急便でおねえさんのところへゆかたを送ってから二日ほどたっていたころだったと思います。きいちゃんのおねえさんから私のところに電話がかかってきたのです。
おどろいたことに、きいちゃんのおねえさんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。けれどきいちゃんのおかあさんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。
おかあさんに電話をしたら、お母さんは「あのこの姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」と言って下さったので結婚式に出ることにしました。
結婚式のおねえさんはとてもきれいでした。そして幸せそうでした。それを見て、とてもうれしかったけれど、でも気になることがありました。
結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんを見て、ないかひそひそ話しているのです。(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)とそんなことをちょうど考えていたときでした。
お色直しをして扉から出てきたおねえさんは、きいちゃんがぬったあのゆかたをきていたのです。
ゆかたはおねえさんにとてもよく似合っていました。きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。
おねえさんはお相手の方とマイクの前にたたれて、私たちを前に呼んでくださいました。そしてこんなふうに話し出されました。
「みなさんこのゆかたを見てください。このゆかたは私の妹がぬってくれたのです。妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。家で父や母とくらしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。それなのに、こんなりっぱなゆかたをぬってくれたのです。高校生でゆかたをぬうことのできるひとがどれだけいるでしょうか?妹は私のほこりです」

式場中、大きな拍手でいっぱいになりました。そのときのはずかしそうだけれど、誇らしげでうれしそうなきいちゃんの顔を私はいまもはっきりと覚えています。
私はそのとき、とても感激しました。おねえさんはなんてすばらしい人なのでしょう。そして、おねえさんの気持ちを動かした、きいちゃんのがんばりはなんて素敵なのでしょう。
きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。もし、名前を隠したり、かくれたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなにさびしいものになったでしょうか?

お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。でも私はなんにもしていません。わたしこそ、こんなに素敵な場面に出会わせてもらえてなんて幸せなのだろうと、本当にありがたく思っています。きいちゃんはお母さんに「生んでくれてありがとう」とお話したそうです。
きいちゃんはとても明るい女の子になりました。これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいといいました。そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。


http://itijikurin.web.fc2.com/watashi/watasi.htm
ここから抜粋したものです。

時には優しい気持ちになって自分が満足に生きている事に感謝。  


Posted by ぷるぷる at 16:12Comments(1)

2008年04月27日

ハワイアンとOlive



これは僕が考えたオリーブ100周年グッツ

アロハとオリーブの組み合わせ売れるかなぁー



  


Posted by ぷるぷる at 12:03Comments(1)インテリア

2008年04月25日

誰が買う?

今日家に帰ると着てます着てます。

早速オイシックスの有機野菜通販の箱を開く。

中身は写真の通り。

直ぐ、お袋にどれくらの値段かを見てもらう。

この牛乳はマルナカでいくら位。

このアスパラガスはいくら。

締めて1400円位かと・・・・・・

いやいやお試しセットで1980円だ。

それも運送費900円もサービスされての事だ。

それなら買わんワーとお袋。

誰が買うねん・・・・・・とココで大阪弁。

皆さんはこのオイシックスの有機野菜かいますか?


  


Posted by ぷるぷる at 22:01Comments(0)

2008年04月24日

メガネを踏んづけた


急いではばかりへダッシュ

その時、机からメガネが床に落ちた。

知ってはいたのにトイレから帰った僕はすっかり忘れていた。

ぐにゃ・・・足の裏に微妙な感覚が・・・

思わずしまったと直ぐ足をのけるが後の祭り。

仕方がない。

自業自得。

取り合えず自分で針金を曲げるようにして直しましたが後でメガネ屋に行こうっと・・・  


Posted by ぷるぷる at 15:49Comments(4)生活

2008年04月24日

「いただきます」の意味

学校の給食で金を払っているのになぜ「いただきます」と言わなければいけないの???
と言う親御さんがいたというニュースが以前に話題になった。

その時僕は料理や米を作ってくれたおばちゃん、農家の人に対して感謝の意味で言うのかと思っていた。

ところがそれは少し違っていた。
昨日読んだ地球村の高木さんの本の中で紹介されていたことは

高木家は子牛の花子を飼っていた。
子供達も花子を家族同然にかわいがった。
花子はすくすくと大きくなり、大人になった。

高木さんには一つの悩みがあった。
それは花子が大人になり
肉として食べるか?
どこかに売るか?

ある日高木家の食卓に牛肉が出た。
高木さんは子供達に言った。
これは花子の肉だよ。
子供達はオンウォン泣いた。


しばらくして高木さんは僕達は皆の命をいただいて生きているんだよ。
と静かに生きていくことは皆の生命をもらって生かされていることを話した。


子供達も静かに花子の肉を食べた。

それから子供達は好き嫌いを言わずになんでもきれいに食べるようになった。

いただきますの意味!!!

それは皆の命をいただいて生きさせていただきますという意味。  


Posted by ぷるぷる at 10:22Comments(2)生活

2008年04月23日

讃岐うどん占い

皆のブログを見ていたら「うどん占い」の紹介があったので僕もやってみました。

僕はかけうどんでかけうどんでした。

内容は次の通り

● かけうどんさんは、明晰な頭脳とタフな体力に恵まれた人です。かなりのアピール上手なので、いつも周囲に強いインパクトを残していることでしょう。いわゆる、リーダー的なタイプだと言えそうです。そしてリーダーたるにふさわしい寛容さや、的確な指導力も持ち合わせています。たとえ現状がそうではないとしても、あなたには周囲を引っ張っていく魅力と技量があるので、それを上手に引き出してみて下さい。また小さな成功で満足せず、常に大きな夢を持っていることが、開運の鍵になりそうです。頭の回転が速く、話題も広いので、恋愛面でも人気者になりそう。ただし少々飽きっぽいので、そこを改めない限り、遊びの恋に終始してしまいそう。

● かけうどんさんの来世は、惑星です!


なかなか良いこと書いてくれていました。
さあーリーダとして頑張るぞー

ここで占いやっています。
http://u-maker.com/222902.html  


Posted by ぷるぷる at 17:53Comments(4)雑学

2008年04月23日

雨ふり


さっきから雨が降り始めた。それにしても雨多くありませんか?

『雨が降れば傘をさす』

この言葉は経営の神様 松下幸之助氏の言葉です。

経営も自然から凄く学べることがあります。

私たちは雨が降れば当たり前ですが傘をさします。

経営も不景気であれば身を守るために傘をさせばよいという意味だったと思います。

チョット自信がないけど・・・雨

当たり前の行動を当たり前にする。

不景気なら不景気のように振舞う当たり前だけどツイツイ見栄とか面子とかで出来ないですね。  


Posted by ぷるぷる at 16:21Comments(0)経営

2008年04月22日

さぬきの寺尾アキラ


今日車で運転をしていると寺尾聰のルビーの指輪が流れてきた。

思わずレーバンのサングラスをして運転をしていた僕は、寺尾聰に為りきりご機嫌な気分で中央通りをぶっ飛ばす。

日差しはじりじりと暑く、太陽はまばゆく、一時 西部警察の時代に戻っている僕。

あの頃の寺尾聰はカッコー良かった。

出来ればあんな大人になりたかった。

しかし、この写真は寺尾聰と言うよりは大門こと渡哲也だローと突っ込みを入れてみる。

あの頃の憧れはまだ消えない。



ルビーの指輪




  


Posted by ぷるぷる at 17:04Comments(4)

2008年04月21日

通販で野菜を買ってみました

ユニクロが野菜ビジネスに失敗したというのに30代の若い社長が成功を収めているのを知った。

彼の経歴は以下の通り。

1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了。父の仕事の関係で、幼稚園、小学校合わせて、5回の転園、転校を繰り返す。丈夫ではなかった自分を克服するため、小学生時代からサッカーを始める。中学から中高一貫の男子校へ進学。体育祭を復活させるなど、様々なリーダー役を経験。この頃から、将来は何かしらのリーダーとして活躍したいと思うように。大学時代は、学生の国際交流活動、ベンチャー企業でのバイトに明け暮れた。就職のタイミングを逸して進んだ大学院時代に、自らベンチャー企業を立ち上げる。大学院修了と同時に、外資系コンサルティング会社のマッキンゼーに入社。2000年5月の退社まで、Eコマースグループのコアメンバーとして活躍。退職後翌月の6月、インターネットを通じて、安全でおしい食材を一般家庭に宅配するオイシックス株式会社を設立。代表取締役社長に就任した。2006年、Entrepreneur of the year Japanファイナリスト。2007年、DREAM GATE AWARD2007受賞。

あのユニクロが失敗した野菜の通販。

どのように成功したのか気になる。

早速注文。

金曜日の夜に届く。

どれほど美味しいのか楽しみだ。


オイシックスのHP
http://www.oisix.com/topPageG5.htm?SESSIONISNEW=TRUEID&mi2=7749






  


Posted by ぷるぷる at 21:53Comments(1)

2008年04月20日

車のキズ



3月30日にキズがあった所をやっとの事で消しました。

http://hu1028.ashita-sanuki.jp/e19011.html

比べてみてどうでしょうかワーイ

まあまあ消えました。

しかし、ほれた所は消す事はもちろんできません。

仕方なく白のペインティングをしました。

素人ではこの程度。

まあー洗車もして愛車も喜んでいるだろう。  


Posted by ぷるぷる at 15:34Comments(3)生活

2008年04月20日

あぜのタンポポ


今日はお天気なので田んぼのあぜ道を散歩。

するとチョウチョがタンポポの周りをとんでおり、

春いっぱいの温もりをくれたよ。

今日はポカポカ陽気、気持ちが良いね。

ふと子供の頃にかえって茎でプーっと音を出してみた。

子供が真似をしたけど鳴りません。

なぜか優越感に浸るわたくし父でした。



こんな事でしか優越感にひたれんのんかプッン
  


Posted by ぷるぷる at 11:14Comments(0)風景

2008年04月19日

総会


昨日は同友会1支部の総会でした。

この一年間を振り返ってみると女性2人目の支部長Kさんの船出。

全国大会に向けて皆で頑張った事。

ところが全国大会前日に支部長が倒れビックリした事。

急遽副支部長Yさんが支部長代理でやり遂げた事。

その後Yさんは支部長代理をやり遂げ大変だったと思います。

その後K支部長は復活して今日も元気に出席。

何はともあれご苦労様でした。

また、Mさんが新支部長となり船出をしました。

僕達一支部はM丸に乗り皆で楽しく目的地に向けて進み始めます。



  


Posted by ぷるぷる at 10:10Comments(4)勉強

2008年04月17日

感動のスピーチ

時間があるときにどうぞ

アップル社のCEO スティーブ・ジョブス

卒業式でのスピーチです。

彼の力強い人生に感動をしました。




原文もつけておきますね。

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こう
して晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出た
ことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということ
になります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。
それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の
話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうま
で18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じ
ゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が
生まれる前の話に遡ります。

 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養
子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は
固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子
として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがい
ざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり
女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリ
ストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行
ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、
欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のう
ち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校
もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の
最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が
将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和ら
げた、といういきさつがありました。

               ◆◇◆

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に
大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費
の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎは
すべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃
には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生
で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手
助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はこ
こにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だか
ら退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返って
みると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬
間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは
止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにい
けるんですからね。


 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜
は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返
すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。
日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリ
シュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨く
てね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたこと
の多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだ
って分かってきたんだね。


 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

               ◆◇◆

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ
教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポス
ター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手
書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。
もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィ
のクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみること
に決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わ
せに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実
現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、
科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めて
みると私はすっかり夢中になってしまったんですね。


 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそう
のないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキン
トッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ご
と私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設
計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備え
た世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マック
には複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィ
ンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見
回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しな
かったことになります。


 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかっ
た。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載され
ていなかった。


 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで
点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振
り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわ
けで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点
を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って
繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それ
が何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分
の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点
と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がってい
く、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きて
いくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同
じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

               ◆◇◆

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけ
ることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、
私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレ
ージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業にな
りました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシ
ュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会
社を、クビになったんです。


 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるか
もしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなっ
たので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そ
して最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンに
やがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂
する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を
追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたこ
とは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんで
すから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当
に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たち
の業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまっ
たんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しに
してしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・
ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一
時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始
めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップル
でのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、
まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決
めたんです。


 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになった
ことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってき
ました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さ
に代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくな
った代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最も
クリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーとい
う会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりまし
た。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映
画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニ
メーション・スタジオです。


 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はア
ップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生
努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築い
てきました。


 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こら
なかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。
でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭
をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信
念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、
自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕
事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパー
トを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら
進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかな
い。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、
好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探
し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒で
そういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と
同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探
し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

               ◆◇◆

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。

 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうで
す。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。
そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現
在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日
課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今
日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する
答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要がある
なと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私が
これまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下
す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆ
る物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、
屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間
に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そ
して後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという
思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策で
す。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない
理由など、何一つない。

               ◆◇◆

PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャン
を受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。
私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほ
ぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めな
いだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言し
ました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコー
ド(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことが
あるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、とい
うことです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく
楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということ
です。それはつまり、さよならを告げる、ということです。


 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方
遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を
診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医
師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私
は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に
立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の
細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、す
い臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かっ
たからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元
気です。


 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験と
いうことになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないも
のと願いたいですけどね。


 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純
粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だか
ら前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死に
たい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさ
かそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々み
んなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人
としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうこ
とになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ
唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェ
ント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働
きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他
ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだ
んだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチ
ックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を
生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られては
いけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きてい
くということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、
心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感とい
うのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっく
の昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

               ◆◇◆

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"とい
うとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つにな
っていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメ
ンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き
生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデ
スクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプラ
イターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはま
るでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパ
ーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な
概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の
発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出し
た。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君
が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そん
な田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。
それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。
「Stay hungry, stay foolish.」 それからというもの私は常に自分
自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生
に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。
  


Posted by ぷるぷる at 23:27Comments(2)勉強